感謝の力


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こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。

 

今回は『感謝』について。

 

常に人に感謝できる人って良いですよね、すごいですよね。憧れます。

 

私の場合はどうかというと、、

 

・・・体のケガや病気で、痛い時、しんどい時、身近な人は様々な形でサポートしてくれます。

 

ありがたいです。。

 

でもなぜか感謝できなかったんです。。そんな自分も嫌になったりしかがらも、、

 

でも『痛いんです!苦しいんです!それどころではないんです。。』

 

 

・・・仕事量が限界の時、助けを求めたら周囲はフォローしてくれます。

 

ありがたいです。。

 

でも、これも多少の感謝はしても心からの感謝までには至らなかったんです。ここでも、そんな自分に嫌気がさしながらも、、

 

だって『めっちゃ踏ん張ったんです!しんどかったんです!自分がやらねばって耐えたんです!』

 

日常において常に何かしらの形で多くの人に支えてもらっっています。

 

なのに感謝できない自分は性格悪いのかな・・人としての何かが欠如してるのでしょうか・・

 

そんなことを考えたりもしました。

 

確かに未熟さゆえのこともあるのだと思います。自分のことで、いっぱいいっぱいですし、人に助けを求められたら『めんどくさいな』なんて気持ちもわいちゃうことだって正直ありますよ。。

 

でも、そんな私にも感謝が溢れてくる時もあります。

 

例えば、前回のブログの”声”に救われた時。

 

aoiyuki.hatenablog.com

 

些細な気づきは多くの変化をもたらすこともあります。

 

至らなかった自分を知ると、いかに自分がこれまで多くの人に支えてもらっていたかを知ります。

 

そんな時、感謝は溢れるものなんですね。

 

すると、昨日と同じ場所、同じ顔ぶれなのに、見る世界が変わったように感じる事があります。

 

日常の中で周囲の人がしてくれた、ほんの些細なことでさえ、感謝の気持ちでいっぱいになるんです。自分が落としたものを拾ってくれた人にさえ。

 

『自分、気持ちわるっ!』

 

客観的に自分を見た時、そう感じながらも、『ありがとう』が止まらない。

 

ケガや病気の時の手助け、、仕事を手伝ってもらった時でさえ感謝できなかった、自分が、です。

 

何という事でしょう。

 

そんな風に周囲を見てると、困った人にも敏感になったり、自分の為に誰かがしてくれたことにも敏感に気づき、疲れてる人を見かけると、『だいじょぶ?』と声をかけ、仕事も手伝い、コンビニのレジで袋に商品を入れてもらっただけでも『ありがとう』。

 

やっぱり気持ち悪い・・。

 

でも、心は気持ちいい。

 

単に一過性のもので、また元に戻って行くのか、行かないのかはわかりません。

感謝できない状態の時にも、当然出くわすでしょう。

 

世界は・・人間は・・まだまだ知らない事だらけ・・。

 

『生きるって面白い。人ってすごいな・・。』

 

そんなことを考えてた1日でしたよ。

徐々に解ってきた『大切なものまで自らぶっ壊してきた原因にあったものは、私の中の劣等感という甘え』だったというお話。



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こんばんは、こんにちは、あおいゆきです。

 

何をしても感情が動かなくなってしまったかのように何も感じない。気が晴れない。

そんな日々を過ごし、少し鬱々していた今日この頃。

 

 

そんなある日の朝の出勤時、車の運転中でしたが、ぼんやりと、何処かそこにいないような感覚にもなっていて、独り言が発動していることに気がついたんです。

 

 

自分に起きている事なのに自分ごとではないようなその状況で、自分が喋っている声に耳を澄ませると、どうやら自問自答のようなことを喋っています。(完全に病んでましたね 笑)

 

 

そのボソボソした独り言の声は、

 

 

『何が悪いの?それの何がダメなの?』

 

 

その声を最後に止んだ。

 

 

それを機に、そこに意識が戻ってきた感覚になり、目もしっかり開いた感じもしたんです。

 

 

・・それにしても、最後のあの声。

 

 

その声は、小さい子どもの声のようでもあったんですよね。

私の子どもの声だったのか、子どもの時の私自身の声だったのか・・。

 

 

ただそんな気がしただけのものだったのでしょうが、それまで曇っていた気持ちは、どこかスッキリしてもいましたが、その後も子どもの声のようにも聞こえた、あの声が気になり、ずっと考え続けてしまいました。

 

 

ふと気づいたことがあります。

 

自分がもっていた劣等感や不遇を使い続けてきたのは努力しないで済むような所に自分を置いておく為だった。

 

これには、『なるほど!』でしたね。

 

全部そうですもん、実際。

 

見た目のコンプレックス。

『フラれたには見た目のせいだ。。』と。

どうすれば魅力的になれるのかを考え、努力するのを放棄して。。

 

 

苦手、できない、不安対策。

恐怖を自分の中で強化すると、実際に体はそのように反応する。

例えば、過去に私は、人前に出ると、異常なまでの緊張状態になり、体は硬直し、震えたり、声を出せなくなったり。結果的にメンタルの状態として実行不可能な為、やらなくてもいい状況を作りあげていた。

失敗を恐れ、慣れていくこと、準備をすること、どうしたらできるようになるのかを考え、努力することを放棄して。

 

全て、見た目、自分にはできないという劣等感、それらのせいにして、実際に逃げてきたのは『努力する』ということからだった。

 

これまで本当に多くを自らの手でぶっ壊してきた。

 

こんな自分でも一緒にいたいと言ってくれる人もいた。

 

良いと言ってくれる人も、支えてくれる人もいた。今だって。

 

そんな人たちにまで、私は背を向けてきたのだ。

 

『自分はダメなんだ。それが分かったら、またいなくなるんでしょ?』

 

見捨てられ不安だの、鬱だの、見てくれがどうだのと、自分で”ダメ”を探して相手を試して。

 

本当に多くのものをぶっ壊してきた。

 

子供と離れてしまったのだって、そういう自分の劣等感も影響してた。

 

情けない。一番大切だったのに。全部、ぶっ壊してきたのは自分だ。

 

『変わりたい。。』

 

毎日毎日考えてきた。

 

『何が悪いの?それの何がダメなの?』

 

あの声を一歩に、また、一から歩もうと思うよ。

 

ディフォルトを目指して。


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こんにちわ、こんばんわ、あおいゆきです

 

このブログ。

 

始めたきっかけは過去の記事にも書いた通りなんですが、、いろんなな事を知れば知るほど、自由に、書きたいようには書けなくなってしまうものですね。

 

aoiyuki.hatenablog.com

 

改めて考えてみたんです。

 

過去に私が、母の日記から力を得たように、私が書いたものが、ほんの少しでも誰かの何かの力に、または役に立てたら・・という思いは確かにありました。

 

ですがないんですよね、そんな力は。

 

ではどうしたら『誰かの為に』に少しでも近づけるのでしょうね。

 

そう考えた時、自分の為にまずは書くべきだ。そんなふうに思いました。

 

自分が勇気が欲しい時、悲しい時、迷った時、八方塞がりな時、自分の決めたことを信じられなくなった時。そんな時に読みたいもの。

 

文を書くということにおいては、何から何まで、ないないないない・・な現状の自分ですが、まずは種蒔きから。

 

今日は、そんな独り言日記でしたよ。(いつもです。はい。)

どこにも売ってない0円の本。

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こんばんは、こんにちは、あおいゆきです。

 

子どものころから「これって正解?図鑑」が欲しかった。

 

なんの正解?かというと、

 

『自分が好きって思ったこと。』

 

『自分が思ったこと。』

 

『自分が考えたこと。』

 

『自分が描いた絵について。』

 

『自分が誰かに、してあげたかったこと。』

 

『自分がして欲しかったこと。』

 

『好きって言ってもいいの?』

 

などなど、、自分から発信されるもの全ての、「それって合ってる?」が、知りたかったのだ。

 

なんでそんなこと知りたかったのかな?

 

やったらダメなことをやって怒られないように、、ということもあったのかもしれませんが、、その他にも、それいいね!って言って欲しかったのか、嬉しい!って言って欲しかったのか、それで大丈夫だよ!合ってるよ!そんな後押しの言葉が欲しかったのかもしれないですね。

 

成長するにしたがって、欲しかった「これって正解?図鑑」の名称は、「生き方バイブル」に変わっていった。

 

そんなものが、この世に存在するなら、今からでも欲しいですが・・笑

 

結構マジメに探したんですよ。

 

「みんなが知ってるけど自分だけが知らない真実みたいな事があるに違いない」

 

そう思って。

 

けれど何処をほじくろうが見つかりっこないですよね。そんなものないんだもの。

 

そりゃ、不変の真理みたいなものはありますよ。

生まれて老いて死んでいく、、変えようのない移り変わっていくものみたいな。

 

けど、知りたかったのは、あれでしょ?

 

人間関係について。全ては人間関係。

 

なぜ上手くいかないのかな?が多かったから。

 

少しはうまくできるようにはなったこともあるかもしれないけど、そういったスキルみたいなことじゃなくて、自分の心が人と接していることで、どう感じているのか。

 

それがとても重要だった。

 

楽しいのか、悲しいのか、ムカついてるのか、穏やかなのか。とか、そういうこと。

 

『そうは言ってもうまくいかないんだもん、何でもいいから、スキルが欲しい!』そう思っていた時もずいぶん長い間あったようにも思います。

 

だけど、思ったんですよね。

 

「生き方バイブル」は「自分バイブル」

 

自分が感じてること、考えてること、合ってるか間違ってるかは気になるところではあるけど、考え始めたらホント何も進まないから、そこを見続けるんじゃなくて、自分の中にある感情を自分はどんな風に見てるのかを知ることの方がよほど大事。

 

心は幼稚だから。思考はオトナ。

 

心はホント自由すぎるからね。ほっとくと、とてつもなく自己中になっちゃう。

 

そんな心をどうするか。

 

訂正しようとしたり、しかったり、責めたりしちゃダメなんです。なんで、そう感じたのかな。それをオトナである思考を使って整理整頓してあげなくちゃいけないのかもしれないですね。

 

なんだかんだで、心は導いてくれるもんでもありますから。

 

でも、思いついた順番に、順序なんて知ったことかと言わんばかりの奔放さで、バラバラに出してくるから。だから、いろんなこと勉強して、できれば知恵もつけて、整理整頓してあげなくちゃいけないみたいですね。

 

一生それなのかな。けっきょくは。終わりはない。

 

人間はできあがりはしなくて、フワフワ勝手にわいてくる感情を、いっこいっこ丁寧に形作ってあげて、『あなたはここ、はい、あなたはこっちね』で、一生をついやすのかもしれないですね。

 

そんな、これから先、更新の可能性大いにありな、現時点の私からでした。

キラキラな日常なんていらないんだわ。見たいのは”状態”ではなくあり方なんだよ。

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こんにちは、こんばんわ、あおいゆきです。

 

 

まず最初に、画像の悪い写真ですいません。

動画の一コマで画質を綺麗にするスキルが私にはありませんでした。

これはスノースクートというマイナーな乗り物ですが、大好きなんですよね。

これは一言で言うと『面白いです』それ以外に表現方法が見当たりません。(素敵な表現できるように頑張ります)

 

 

そんなスノースクートのお話ではなく、キラキラへの憧れはもういらんよっていうお話。

 

 

日々、様々なことが起こります。何も起こらないよう、何も感じないよう、一切のことに波風立たないような、ひたすら『凪』のような生き方は、残念ながらできないようです。

 

 

仮に1日中、部屋に引きこもっていたとしても、『腹へった』や『眠い』、さらには五感から入ってくるものを経て何かしらの感情がわいてきます。

眠ってたって、暑さ寒さ、枕の位置、服のヨレ具合などの、快不快も感じますし、夢をみて感情が動く事だってあります。

 

 

取り組んでること、現状の状態を快適にしていこうとしたり、心が楽しいと思う事を、やったり、探してみたり。人の心と頭は24時間営業、年中無休のハードさです。

 

 

人間て忙しい生き物ですね、ホント。

 

 

求めてるのは衣食住、+αの充実感的なもの。

 

 

他の動物たちはどうでしょう。ひたすら食すことに1日を費やす性質の動物も多いとは思いますが、動物って、食って、動き回って、あとは、ひたすら寝ている印象がありますね。(笑)

※この辺は人の行動との比較の為の、ざっくりとした印象のお話なので詳しい生態になどについてはかなり適当ですので。

 

 

そう考えると、人も動物もやってる内容的には、さほど大差ないんですよね。

お仕事なんて、衣食住のために必要になる物との引換券を得る為のものに過ぎないですしね。

 

 

ここで一句。

  『頑張って

     レクサス得ても

        老いればみんな

            セニアカー

・・・よもや、よもやだ。。(引用2回目)

という身も蓋もない話は置いといて。。そもそも”みんな”ではないよね。

 

 

話を元に戻して、、じゃあ、人特有の苦しみっていったい何なのかって所ですよね。

 

 

何だか知らんけど、いつの間にか、人より優ってなきゃダメ的な感覚が備わってた。

何だか知らんけど、暇に耐えられない感覚が備わってた。

何だか知らんけど、良いもの身につけると自分に価値が乗っかる感覚が備わってた。

何だか知らんけど、幸せになりたいって何に対してなのかもよく分からん感覚まで備わってた。

 

 

何だか知らんけど、何だか分からんもんに振り回される生き方になってた。

 

 

きっとこれなんでしょうね。『イキズラサ』なるものの元になってるものって。

 

 

でもこれら、自分が選んできたものなんですよね。

 

 

これまで過ごしてきた中で、いろんな人に言われたり、影響受けたり、自分は傷ついたけど大切な誰かをも守るために選んだ物だったりしたんじゃないのかな。

 

 

 

結果的に自分を苦しめるものになってしまったものだったかも知れないけど、その時々で、一生懸命選んできた。

 

 

 

だから、ダメなんかじゃないんです。

 

 

大事なのは、『そうだったんだ』って事を自分で知ること。

 

 

そっから、『自分』が始まっていくんだってだけなんですよね。きっと。

自分で考え、自分で決めていくことが始まるんです。

 

 

 

自分で決めてやってくことって、思い通りにいかないです、ホント。

遠回りだってしますし、泣きますし、迷いますし、同じことグルグルもしますし。

 

 

 

自分で考えて決めたことって、泥臭いとこしか歩けないですか?

キラキラなことなんて何もないです。

 

 

 

でも、そんな営みそのものが何より尊いです。これが自分という事を感じることができる唯一の方法なのかなと。

 

 

 

だからね、人って面白いなって。そう思うんですよね。

 

 

 

そんな精神論のような、つぶやきのような、低空飛行のような、ささやきのような、そんなお話でしたよ。

そっか。ずっと嫌だって思っていたんだね。辞めちゃいたいことに向き合い続ける意味ってホントにある?


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こんにちわ、こんばんわ、あおいゆきです。

 

 

やめられない、とまらないのは、なぜなんでしょうね〜。

 

 

おいしさがとまらなないたけのこの里のように、やめたいと思う習慣も行動も考え方も、簡単には人はやめられないものですね。

 

 

仕事がずっと嫌だったんです私。このところ。

仕事がというより残業が。目一杯仕事をこなし定時を目指す。

 

 

実際の仕事量は多いため、定時で完了するのは厳しいのはわかっていた。

それでも目指した。目指したら何とかなるもんだ。

 

 

定時には終わらないにせよ、目指すことで近づけた。通常のペースで進めれば、2時間近くの残業になってしまう。これを定時までに完了しようとするのは、なかなかハードだ。

 

 

実際のところ、効率だけを考え続けて1日動き続けないと近づけない。こんな風うに仕事をやっていると6時間しか集中力が持たない。残りの2時間ちょっとのポンコツ具合はなかなかだ。頭が働かせようにも頭のどこかの何かが、それ以上行かないように機能をストップさせているみたいだ。

 

 

それでも30分ほどの残業になってはしまうが、その仕事量にしては上出来だ。

 

 

そして、『後は知らん』と帰宅。

 

 

そして翌日。

仕事を増やされる。

『早く終われるなら、これもお願い』と。

全力で抗議する。だが、抗議するのも無駄なのは分かっている自分もいる。

 

 

聞き入れられない。案の定。・・バカなんだろうか。

 

 

『あれだけのことして早く終わらせてるのにやるわけねーだろバカが』と心と体が突っぱねても全体の忙しさに呑まれ、結果的にやらざるを得なくなる。

 

 

怠ける者、最初から諦めて手早くやらなくなった者に足を引っ張られる。

泥沼のような所だ・・。こんなことにどれだけ付き合ってきただろうか。

 

 

なら、作業自体を簡単にしていき、工数を減らし、通常のペースで作業してもどうしたって定時で終わってしまう、、そんなシステム自体を作っていけないものか・・と、上の者に相談、提案しながら、個人でできる事を少しずつ変更していき改良を目指す。

 

 

結果的に自分の作業自体は少しずつ早く終わらせれるようにはなっていった。

だが、他の作業者には浸透していかない。

 

 

何も変わっていかない。まさに泥沼だ。昭和の会社設立時からこの現場は時間が止まっているのだ。淀んでいる。風も吹かなければ、新しい水も入ってこなくて浄化もされない。

 

 

きっと、その方が、都合がいい者たちがいるのだね。それで得する者たちがいる。

結果的に現場の士気は失われ、無気力な奴隷のように誘導されていく。

 

 

つまらん。これでは、重機の生産工場ではなく、鬱人間の生産工場だ。

 

 

その、あり方自体は否定はしない。転職して3年。自分でできる範囲での改善は試みてきたつもりだが、このところ、時間を無駄にしているという、自分に対しての罪悪感ばかりに目がいく。

同じような事を試みる仲間は、ほとんどが辞めていった。自分が所属するチームのみんなは好きだったから投げ出さずに踏ん張ってきたけど、苦悩ばっかりだ。

 

 

サボる、手を抜くにしても時間が食われ過ぎてしまうことへのストレスが半端ない。

よもや、よもやだ・・とか言っている場合ではない。これでは、猫まっしぐら(ちょっと古い)ではない、鬱まっしぐらだ。

 

『どうしたもんかね〜。』の時期はもう終わっていて、そろそろ限界。

 

本当に疲れた時こそシンプルなことが必要。


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こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。

 

『何だか感情が動かない・・・疲れたぁ・・私、我慢してるんだなぁ・・。』

 

こんな時はきっと一方向からのストレスが強くかかってるんだろうな。

 

一方向というのは、無意識に自動運転で発動する自分流の捉え方。

 

本当に疲れた時って、それにすら気づけない。

視点を変えるという発想すら浮かんでこない。

 

そんな時に響いた言葉はシンプルだ。

 

「よく頑張ったね」

 

なんか泣けた   笑

 

あとは安心して休もう。それしかない。

 

今日もみなさんお疲れ様でした!