心のモヤモヤて何かを知らせようとしてくれてるんだね。


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こんばんわ、こんにちは、あおいゆきです。

 

 

最近の自分自身に対して、居心地の悪さを感じはじめていたんです。

 

 

その理由は、職場で挨拶するのをやめようと決めてから始まったんですよね。

細かくいうと、挨拶しても返ってこない人に対してと、上司でもないのに挨拶ごときで上から風な返しをしてくる人に対して。

 

いませんか?そういう人って。

 

 

それ以前はどうだっかと言うと、毎朝、部署関係なく、返って来ようが来まいが、も関係なく誰にでも挨拶してたんです。何も気にせず。

 

 

朝ですもん。その日はじめて顔合わせたんですもん。するでしょ、そりゃ。

そんな思いで何気なく挨拶して過ごしていました。

 

 

でも、なぜだかそれが最近なんかダメだったんですよね。気になって気になってしかたない。返さないとか、いちいちムカついてしかたない。

その感情は長引きはしないにしても、その都度、その都度、何でこっちが気分悪くならんとダメなんよ!いつしか、そんな風に思うようになっていた。

 

 

以前は何も気にしてないと思っていたけど、本当は我慢してたとことかあったのかな、、などとも考え、いったんやめてみようと。そういう人に挨拶するの。

嫌われてるんならそれはそれで良いやとも思って。

 

 

やめてみたら、気にならなくなった。しばらくは。

 

 

・・すると今度は何だか心がモヤモヤし始めた。

 

 

気にならなくなってからは、以前から挨拶しても返ってこなかった人とのすれ違い際、無意識に挨拶しそうになるのを、止めてる自分がいることに気がついたんです。しようとするものを意識的に止めるんですもん。そりゃ、居心地悪いですよね。

 

 

うわ。。

 

どうすりゃ良いのよ。。

 

 

したらしたで朝からいちいち気分悪くなるのもイヤだし、しなかったらしなかったで自分の心がモヤモヤするし。。

 

 

まあいい。忘れよう。しないのはしないで続行しよう。

と、モヤモヤはあれど、そんな風に日々を過ごしていました。

 

 

とある日、こんな言葉に出会いました。

 

『放下着(ほうげじゃく)』

 

これは禅語で、様々な迷いや執着を捨てること。と言う意味だそうです。

その言葉を詳しく調べて行くにつれ、こう思ったんですよ。

 

『〇〇しなければいけない』

『〇〇するべきだ』

『こうあるべきだ』

『自分は大切にされるべきだ』

 

・・など、傲りや、あるべき姿や、やるべきことに自分をはめ込み、そうではない自分、できていない自分を理性が排除しようとして窮屈にしていたのかもしれない。

 

 

その結果、無意識に周囲の人にもそれをいつしか強要しようとしてたのかな。

 

 

相手には相手の事情がある事を見ようともせずに。

だから挨拶を返さなかったり、上からな感じに返す人を許せなくなってたのだろう。

 

 

ちゃんとしない自分、できない自分、至らない自分、、そういったことに否定的な自分。できない時、そんな不完全な自分に居場所を与えず『できない自分はダメ!』と言い続けてきた。そんな自分だっていたっていいんだよ。むしろ、いてください。

 

『そんなダメな所もあるよなぁ・・そんな自分・・でも良いじゃないか😊』

 

まずは、そこからだった。

 

囚われ、とでも言うのだろうか、、そういうのって意外と自分の行動に影響してる。

 

 

挨拶の話に戻すと、しようがしまいが、それは、どっちでも良い事なんだとも思った。

したければすればいいし、したくなければしなくてもいい。

それによって人を良い悪いで判断することではないなって。

 

 

振り返ってみれば、仲間同士では毎回ちゃんと挨拶は交わしてるな。。

 

 

挨拶、、そんなしょうもない些細な事だったけど、なんか色々教えてもらった。

 

そんな出来事でしたよ。

 

『鬼滅の刃』鬼を通じてみる”人”というものの愛しさ


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こんにちは、こんばんは。あおいゆきです。

 

鬼滅の刃』アニメの遊郭編も冬にはスタートするようで、アニメの方もまたまた楽しみですね!

あまり漫画に漫画に馴染みのない私ですが、久々に全巻、読破した漫画の1つです。

 

鬼滅の刃』を通じて見えてきた私の中のもの。今回はそんなお話です。

 

日々、湧き起こる感情とどう向き合い、どう生きるのかということを、結構ずっと考えさせられた作品でもあったんですよね。

 

鬼殺隊が鬼を滅するという目的で活躍していく過程は、自分の中に沸いた自分自身を苦しめる様々なものと、いかに向き合うか。。というものであった気がしました。

 

自分の中に勝手にわいてくる感情や煩悩。悲しみや、怒り、嫉妬、迷い。

 

苦しい環境や煩悩に翻弄された鬼たちの存在を通して学ぶもの。

 

何を求め、何に苦しみ、その先で何を選ぶのか。

 

鬼は自分が願ったものに蓋をした。自らが消滅する間際、本当に願ったものに再度触れ、涙した。

 

全巻読み終えて、そんな鬼達から感じた様々な思いを私なりに書いてみようかなと。

 

 

鬼舞辻無惨から始まる、様々な鬼達

 

鬼の始まりとして描かれた鬼舞辻無惨。

 

彼は生きたかった。

 

根本にある”生”というものへの執着。全ての感情や欲望は”生”あってこそ成り立つものなのでしょう。

彼の命はお母さんのお腹にいる最中から何度も危ぶまれ、”生”自体が常に点滅し続けていた。

産まれてからもなお命の選択を強いられ続けた。

 

死産だったとされていた中でも、彼の意思はその機能に必死にエンジンをかけようと試み続けた。荼毘に付される直前に点滅していた命は走ることを許された。

 

そんな彼の境遇から、自分というものが消滅してしまうことを、彼は何より恐れた。やっと掴み取った”生”を失うことを恐れ、永遠を願い欲した。

 

諸行無常。 

📖世の中の全てのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。

 

それは生きる物である以上、変えることのできない真理。

 

”生”という根本。それへの『執着』というのは最も強いエネルギーなのではないだろうか。様々な煩悩はそこから発生してくる、、という印象だ。

 

だからこそ、どの鬼よりそのエネルギーは強大だった。他の鬼たちは、生まれてから育っていく環境のなかで起こった出来事が原因で鬼になる事を選んでいった者たちだ。

”生”というものが、走り始めてからの様々な出来事によって沸き起こってきた”感情”に翻弄された者たち。

鬼の始まりの鬼舞辻無惨とその他の鬼たちとの違いはそんな所にあるように思う。

 

何かを越えていこうと試みることが、生きることを試みるという事

 

そんな鬼舞辻無惨という強大なエネルギーにたどり着くまでの間には、様々な『煩悩』との対峙があります。

 

様々な理由で鬼という生き方を選んだ者たち。

 

自らの価値というものに苦しんだ、 自分というもののあり方への疑問、

愛されたいというものに対するエゴ、 無力な自分自身に対しての怒り、

貪りの心、 強い劣等感、 そして愛する者を失った哀しみ怒り苦しみ。

 

避けようとしても避けられなかった苦しみも中にはある。

だが、無知さゆえ走らせてしまった煩悩なら、個人でも対処可能なようだ。(とは言っても簡単ではないが)

 

愛するものを失った哀しみ苦しみ怒り、そんな対処不能とも思える、人を一瞬にして鬼化させていくような性質のもの。

 

救いはどこにあるのだろう。何をよりどころに生きたらいいのだろう。どうやって生きていったらいいのだろう。そんな絶望の沼の底の底の方にまで突き落とされるような感情に支配されてしまった時、人はどのように生きていったらいいのでしょうね。

想像するだけでも本当に苦しくなってしまうものです。

 

そんな中に見つけた慈悲と祈り。

 

人の深い深い哀しみ。その全てを理解し取り払うことはできない。

 

本当に望んだことは何だっただろうか。本当に願ったその思いとは何だっただろうか。

それが叶わなかったという哀しみの感情から、祈りに変わる。

救いはそうした慈悲からしか得ることができないのではないかな、、そんな事を思いました。

 

全ての鬼の救いになったもの

 

鬼たちは、剣士との格闘の中での会話のやり取りなどから、自らの過去と対峙し、根本にあった自分の思いに近づいていく。

 

鬼達は追い詰められれば追い詰められるほど、心理的には本来の”人”に近づいていったのかもしれない。

一方の鬼殺隊の剣士たちは、その鬼とのやりとりや、伝わってくるものから素性を探り、一撃に繋がる突破口を見出す。その描写がすごい。

その印象はまるで心理カウンセリングのようでもあった。(これは本当に思いましたよ笑)

 

鬼たちが救われていくその過程は格闘の中で自らが見出した。

 

首を落とされた鬼。自ら消滅していった鬼。

最後に本当の願いに触れ、涙を流した。

 

自ら与えた慈悲によって欲したものへの本当の思いを知れた。

 

それが彼らの救いとなった。

 

鬼舞辻無惨のように、本当の最後の最後まで、その執着を手放せなかった者もいたが、それほどの強い願いでもあったのだろう。彼の”生きたい”ということへの思いもまた、無垢なものだったに違いない。

 

私を生きるということ

 

鬼滅の刃は生きる事を考えさせてくれた。

 

日々、様々なことがおこり、様々な感情を味わう。

 

私たちの日常は、法律や、規律や道徳、先人達が細かく作ってきた、様々な枠組みのお陰で、鬼滅の刃のような壮絶なことには滅多にはならない。しかし、日々、報道されるような凄惨な事件も存在する。

その根本にあるのは鬼滅の刃の鬼達の内情でも表されたものと同質のものを人は心に抱き、現実化していく性質を人は持っているのも事実だ。

 

心に悲しみが沸き、真っ暗な雲が立ち込めそうになった時、鬼滅の刃を思い出そう。

 

鬼達が自分自身に向けていった慈悲。

 

鬼殺隊が見せてくれた仲間や家族。支えてくれる人の存在。

 

これが生きていく上で、とても大切に持っていなければいけないものに思えて仕方ない。

 

欲しいものは足元にある。


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こんばんわ、こんにちは、あおいゆきです。

 

私の育った所は、山も近かったが、海も近かった。海までは5分も歩けば海岸。そんなのどかな田舎で私は育ちました。

 

その海岸は、大小様々な無数の石がゴロゴロしている。その無数の石の中には”ヒスイ”が混ざっている。

 

山から削れ落ちた石は、長い年月をかけて川をくだり海に流され、海岸にたどり着く。

簡単には見つからないが、海水浴シーズンになるとヒスイを探す観光客で海岸が賑わう。

 

亡くなった祖母もヒスイが好きだった。

自宅には長い年月、海岸に通い続けた祖母が拾ったヒスイがある。

 

1㎝未満のものから3㎝ほどの大きさのもの、中には30㎝をほどのヒスイの原石も飾られている。

その数は、細かいもの、小さいものを合わせれば、40〜50個程はあるだろうが、その中でも、石の鑑定士も欲しがる程のものは3個ほどだろうか。

 

祖母は海が大好きだった。暇さえあれば海岸にいた。

 

私が地元で暮らしたのは15年ほどであったが、祖母が海岸に通った年月は、私が生まれる前〜地元を離れた後にも続いたであろうことを思うと、少なくとも40年以上になるだろう。

 

自宅に飾られている、ヒスイの数を見れば、通った年数が40年(おそらくそれ以上)としても、小さいものが1年に一個ほど、本当に価値ある原石は10年に1個も見つからないのだ。あれほど海岸に通い続けた祖母でさえ、無数にある石の中からヒスイを見つけ出すのは簡単ではなかったようだ。

 

祖母がヒスイを見つけた時に言っていた事を、母から聞いたことがある。

『ヒスイが呼んでいた』そう言っていたそうだ。

これは本当かどうかはわからないが、とにかくヒスイが呼んでいたのだ。

 

日々、迷った時や悩んだ時、それが何故なのかを探す時、あの海岸でヒスイを求めて、無数にある石ころを見つめ、何時間も何時間もただひたすら足元だけを見て歩く祖母を思い出す。

 

『足元には大切なものが落ちている。』

 

今の私の探しもの。

それは『私には何ができるのだろう』なのです。

誰かの役にたってみたかった。子どもの。大切なひとの。できれば、私を取り巻く周囲のみんなの。

 

あの膨大な数の石の中から、祖母はいくつもヒスイを探し当てた。

 

実際はもっと落ちていたかもしれない。

だが、それは問題ではない。

 

祖母が探し歩き、生涯かけて見つけ出した数々のヒスイ。

 

それが祖母なのだ。

 

祖母の”ヒスイ”。

 

私の”ヒスイ”。

 

今日は、そんなことをふと思い出していた。

『できない!できない!うまくいかない!わーーーーっ!!』ってなりそうな時は、いったん落ち着こうよっていうお話。


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こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。

 

 

私はマンションの4階に住んでおります。ある日の朝、出勤の時間に玄関のドアを開け廊下に出た時です。

 

小鳥が暴れていると即座にわかるような羽音と鳴き声が耳に入ってきたました。

 

前日は風が強く雨も酷かった為、雨風を逃れようと、何個か開いた窓のひとつから逃げ込んできたのでしょう。

 

ですが開いていた窓はほんの数カ所。開いている窓を見つけられず、、、ちゅんちゅんちゅんちゅん鳴いて必死に窓に向かって羽ばたきますが、そこは開いていない窓。。

 

何度も何度も開いていない窓にクチバシを打ちつけ、体がぶつかる音がしていました。

 

可哀想になり、なんとか外に出してあげたいと思い、廊下中の開けられる窓を全て開けて歩くのですが、私が近づくと、やはり怖いのでしょうね、、錯乱して私の右へ左へと天井を這うように逃げ惑い、一向に空いた窓にはたどり着けないでいた。

 

そうこうしている内に時間もたち、小鳥は外に、私は会社に行かなければなりません。

 

『開けられる窓は全て開けたし、落ち着きを取り戻したら自分で出ていけるだろう。大丈夫。大丈夫。』

階段を降り、車で会社に向かいました。

 

道中、ふと思った。

 

『できない!できない!』で錯乱した時って人ってあんな風になる時あるよな・・。

 

やりたいようにはいかず、その焦りや、ホントにできるのか不安になった時って、錯乱し、理性を失った時、あの小鳥のように開いているであろう窓に目星をつけて体当たりし、体を打ちつける。

 

場合によっては、開いてないのなんて知ったことかと叩き続け、開いていないなら、ぶち破ってしまえばいい!!と、さらに力を込めて叩きまくる。狂乱だ。ここまでいくと怖い。。

 

でもさ、開いてる窓って必ずあるはずなんだよね。

 

叩いて叩いて見えてくることもあるだろう。けれど、何度試しても、うまくいかない時って立ち止まることって大切だよね。

 

『自分はダメ。向いていない。』じゃなくて、単に、見てるところ、やり方がずれてることってよくある。

 

自分が今やってることって、それ本当にやりたいこと?

誰のためにやっているの?

何のためにやっているの?

どんな風になりたいの?

 

そんな自問自答を繰り返し、たくさん失敗するけど、少しずつ修正していって。

 

常に自分で考え、自分で決めていくこと。

 

それってすごく大切だよね。そんな見極め。

 

求めた形の結果通りにはいかないかもしれない。

 

理想とした大きさにはならないかもしれない。

 

でも、投げ出しちゃったら、あの小鳥はずっと廊下に住まなきゃなんないよ。

エサも仲間もいない。そしたらどんどん弱ちゃうよね。。自分で出るしかない。。

 

・・その日の夕方、仕事を終えマンションに着いた。

 

『あの小鳥、ちゃんと出られたかな。』

 

階段を上がり4階について、廊下を見渡した。

 

小鳥はいなかった。

 

私が去った後、落ち着きを取り戻し、辺りを見渡し状況を確かめたら、開いてる窓が見えたんだね。

 

ほらね、ちゃんと出られた。

 

集中できる事への満足感 〜散漫 〜最高の1日に向けて 〜帰宅後からのプチ罪悪感。。      な、1日。


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こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。

 

今日は朝から他にブログ記事を書いておりまして、『自分は書くことが意外にも好きなんだな・・ふむふむ』なんてことを感じて少し嬉しくなっておりました。

 

なのにこの散漫さ。。思考が、感情が、関心の矛先が・・ん〜、、自由すぎる。

 

その気がかりの元。それは『ペットショップ』なのは知っていた。

 

好きなんですよ、動物が昔から。小学生の頃より熱帯魚、小鳥、爬虫類、、様々な動物達と暮らしてたんです。(今はイモリさんがいるよ)


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          『このコは人形。(ツヤツヤ加減がリアル)』

 


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 『このコです。(”トントン”したらこっちくるイモリさんが2人います(*^^*))』



・・だから、『ペットショップ行きたいな・・』は、最近ちょいちょい考えていたんですよね。

 

『猫見たい!フェレット見たい!インコさん見たい!ねずみだって見たい!熱帯魚見てキリっとしたい!したい!したい!したい!』

 

そうなったらもう止められないんです。

 

もうルンルンしてましたもん。車乗り込むの早い早い。

 

・・・その後、3件のお店をハシゴ。

 

『あ〜今日は満足したな〜。あ〜、満足、満足』(心の声)

 

と1日を終えるはずだった。しかし、なんか罪悪感。。

『いいじゃん!だって動物ずっと見たかったんだもん!』(軽く湧いた罪悪感をかき消そうとしてる)

 

そーだよね。わかるよ。うんうん。(少々内なる対話が始まる(笑))

 

でもさ〜、朝書いてたブログ記事、せっかくいろんなこと調べて書いてたのにさ、途中で投げ出してすっぽかしちゃったよね。書いてみたいと思ったことを聞いて試してみたかったもの。考えながらしっかり書こうとしてたのに、投げ出して行っちゃったんだもん。

 

朝の自分、ごめんね。(二重人格などではない。あくまで内なる対話ね。これにて完)

 

・・・思考はうろうろ一人歩きする。やろうと決めたのに途中から変えちゃうと何だか後味悪いものです。一個ずつ終わらせることって意外と大切ですよね。

そんな今日の事を、まずは綴っておいて、、今朝書いていたことの続きをこれから書いていこうと思います。

 

そんなこんながあっても、、今は書くことが楽しい。

 

このブログを通じて、何か少しでも役立てることを見つけて、構成や楽しんでもらえる文の書き方を勉強しながら、これからも続けてまいります。

そんな事を思った1日でしたよ。(あーー、ホントに『あ〜そう。』にしかなってないね(笑))

『幸せは無垢の心に宿る。忘却は許すこと。太陽の光に導かれ、陰りなき祈りは運命を動かす。』


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こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。

 

今回は、”詩”のお話し。

 

タイトルの詩は『エターナル・サンシャイン』という映画で引用されておりました、イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープさん(1688-1744)の詩なのだそうですね。

風刺的な作品を数多く残され、その作品はシェイクスピアに次いで引用されたと言われる名高い詩人さんのようです。

 

映画『エターナル・サンシャイン』での引用で、この詩を見て、なぜだか映画本編より感動したんです。(いや、当然、映画も良かったですよ!)

 

私、泣きました。詩の所で。

 

この詩を見て抱く印象や解釈は、人それぞれだと思います。詩の作者であるポープさん自身のこの詩に込めた思いも見ることもできません。

           

 

             私はこう思いました。

 

『そう、”無垢”なんです。』

 

最初にあった感情。

幼稚だけど、健気なものなんです。

 

大きくなった私たちはあらゆるものを欲します。

 

欲したものがなんなのかが分からず、心は乱れ、暴走した思考は、それを得る為の手段として、あらゆることを試みる。

 

その手段として選んだもの。

 

それは時には、相手に罪悪感を植え付けたり、同情心を得る為の行動だったかもしれない。

相手を操作しようとしたり、権力に頼ったり、嘘偽り、、そのどれもに後ろめたさを感じつつも、それを感じないようにする為に、さらにそれらを強化し、煩悩の深みにハマってゆく。

 

思うようにはいかない。全くもって欲しいものとは真逆に進む。面白いように真逆だ。

 

苦しくて仕方ない。

 

なぜなの・・?

 

それでもわずかながら叶った事(一見)もある。

だけど、なぜだか片時の心の安らぎも平穏も得られない。

 

その、わずかながら得られたものが離れて行かないように必死になってすがりつく。

 

私は幸せにはなれないの・・?

 

まるで、”沼”だ。

 

『どうしたら抜けられる…?』

 

思い出した。

 

最初にあったもの。

幼稚だけど、健気で、無垢なもの。

 

やっと見れた。

そしたら涙がでた。

 

その慈悲に触れ、心は安らいだ。自分に向けられる、自分自身からの慈悲。

欲しくて欲しくて仕方なくて、あらゆる方法を使って求めたことは、”人”に求めることではなかったのだ。

           『幸せは無垢の心に宿る』

 

 

 

欲しい欲しいは『愛して欲しい』だったのかもしれない。その、欲しい欲しい病が発症した大元の原因は、昔々に叶えられなかった、『寂しかった』だったかもしれない。

 

でも、そうだとしても、それを叶えてくれなかった、あの時の”大人達”も、ただ自分の人生をただ生きていただけだった。今の私と同様に。

私の人生。彼らの人生。みんな違う人間。それだけだった。私は私を隠す必要はなかった。

             『忘却は許すこと』

 

 

欲しかったもの。

それは外的要素からは得られるものではなかった。

 

でも、もう大丈夫。私は私を見つけた。

だからと言って、全ての苦しみが一掃されるわけではない。

 

ああ、お願い。

 

私が幸せでありますように。私の大切な人たちが幸せでありますように。

みんなが幸せでありますように。私のことを嫌ってる人も幸せでありますように。

 

      『太陽の光に導かれ、陰りなき祈りは運命を動かす』

 

 

 

・・・そんな風に感じまして、この詩の引用されるシーンで泣いたのですよ(笑)

これは、あくまで私の考察です。各々が感じられたもの、きっと全く違う風に感じられるのでしょうね。

 

人生とは、苦しくも楽しいものですね。多くの失敗もあって、悲しみ、悔しさ、時には、『もう、無理!』にも出くわし、どうしたら立てるのか、、そんな時もあるのかもしれないですね。

そんな時、私はどうしてるのでしょうね。今は想像できませんが、やっぱり生きたい。そう思うのでしょうね。

 

と、まあ、なんとタラタラと、小さな事から大きなことまで、これ以上、乱文まみれにしないためにも、、詩についてのお話はこの辺で(笑)

 

 

いい人生を!!!

 

『そう思っちゃったんですもん。いけませんか?』


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こんばんわ、こんにちは。

 

1記事目となりました『やりたいことをやって生きてみる&やりたくないことを少しずつやめてみる』に引き続き第2弾となります。(まるで読むのを楽しみにしててくれている人がいるかのような語り口調。すいません。完全ひとりごとです。はい。)

 

未知なるブログの世界。思いつきで始めてみたは良いけど、さっぱりわからん世界。

何を、何のために、誰のために宛てたものなのかも謎な第1弾。

これから先、継続していく過程で多くの先人様方のブログに触れる機会も増えていくにつれて、私の中にもきっと『ブログとはこういうもの』という私なりの定型もできてくるのでしょう。

これから先、このブログがどんな風に変化していくのかも楽しみつつ、すでに愛着のある『aoiyuki's diary』が発展していくことを願って、第2弾を締めくくりたいと思います。

 

 

…とはなりませんよ。残念。残念。

 

 

それでは前回の、①簡単な自己紹介に続きまして、②このブログを始めるに至った動機を書いてみたいと思います。(淡々と長々と、、できることなら端的にお願いしたい)

 

このブログを始めようと思った動機はいたって単純。

子ども(離れて暮らしております。2歳になる。そうなった経緯については気が向いたらまた別の機会に)の存在と、副収入(現段階ではイメージすらできませんが)それがきっかけでした。

 

以上。

 

とはなりません(2回目)

 

 

…まあ、そんな理由です。

副収入ということについては、ぼちぼち(ホントにやる気あるんか?、学びます)

金銭はダントツ1位ですからね。稼ぎます!増やします!振り込みます!(まずは仕事で)

それらは基本的なこととしてね。

 

それとは別に。私ができること。

 

このブログと子ども。どんな関連あるのか。

『私』というひとりの人の人間味を知って欲しいと思ったんです。それは父親としての認識でなくてもいいのです。

遠くても一番近い私という人間が、どう生きたのかを見て欲しかった。

その形をブログに残してみようかと。

これは、ただのエゴイズムでしかないのだろうかとも考えました。

そうなのかもしれませんね。ですが、それならそれを受け止め、また方向転換しますよ。

正解を見定めてから進めるのでは、何も進まなくてね。。

 

私は片親環境で育ちました。

母を自分とは違う1人の人間、母という役割の前にある、母という1人の女性の人生だということを認識できたのが、母の人間性を知れた時からでした。

そのきっかになった出来事は、中学生の頃、ふと開いてしまった母の日記を目にした時でした。(本当にごめんなさいね笑)

そこには、日々の悩み、寂しい気持ち、不安で仕方ない気持ち、自分を鼓舞し立て直し歩き始めるまでの過程など、当時の母の心の苦しみや、もがきがえんえん綴られていました。

働くことなど想像もできない当時の私でしたが、なんだかわからないけど『頑張ろう』そう思ったことを覚えています。

 

それから社会人になっても、何度も思い出しましたね。

あの時の日記。

外には決して出さないけど、日記の中だけにある母の奮闘。

苦しさ、寂しさ、心細さの中から絞り出した勇気の形跡。

 

そんなものを、私の子どもにも残せたら…

そう思っちゃったんですよね。

 

これから大きくなっていくよね。そしたらいろんな壁にも遭遇する。

苦しいこともあるのかな、たくさん泣いてしまうこともあるかもね。

 

そんな時、ほんの1㎜でもいい。

ほんの少しの勇気のきっかに、私はなれるだろうか。

 

そんな願いを込めて。