『幸せは無垢の心に宿る。忘却は許すこと。太陽の光に導かれ、陰りなき祈りは運命を動かす。』
こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。
今回は、”詩”のお話し。
タイトルの詩は『エターナル・サンシャイン』という映画で引用されておりました、イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープさん(1688-1744)の詩なのだそうですね。
風刺的な作品を数多く残され、その作品はシェイクスピアに次いで引用されたと言われる名高い詩人さんのようです。
映画『エターナル・サンシャイン』での引用で、この詩を見て、なぜだか映画本編より感動したんです。(いや、当然、映画も良かったですよ!)
私、泣きました。詩の所で。
この詩を見て抱く印象や解釈は、人それぞれだと思います。詩の作者であるポープさん自身のこの詩に込めた思いも見ることもできません。
私はこう思いました。
『そう、”無垢”なんです。』
最初にあった感情。
幼稚だけど、健気なものなんです。
大きくなった私たちはあらゆるものを欲します。
欲したものがなんなのかが分からず、心は乱れ、暴走した思考は、それを得る為の手段として、あらゆることを試みる。
その手段として選んだもの。
それは時には、相手に罪悪感を植え付けたり、同情心を得る為の行動だったかもしれない。
相手を操作しようとしたり、権力に頼ったり、嘘偽り、、そのどれもに後ろめたさを感じつつも、それを感じないようにする為に、さらにそれらを強化し、煩悩の深みにハマってゆく。
思うようにはいかない。全くもって欲しいものとは真逆に進む。面白いように真逆だ。
苦しくて仕方ない。
なぜなの・・?
それでもわずかながら叶った事(一見)もある。
だけど、なぜだか片時の心の安らぎも平穏も得られない。
その、わずかながら得られたものが離れて行かないように必死になってすがりつく。
私は幸せにはなれないの・・?
まるで、”沼”だ。
『どうしたら抜けられる…?』
思い出した。
最初にあったもの。
幼稚だけど、健気で、無垢なもの。
やっと見れた。
そしたら涙がでた。
その慈悲に触れ、心は安らいだ。自分に向けられる、自分自身からの慈悲。
欲しくて欲しくて仕方なくて、あらゆる方法を使って求めたことは、”人”に求めることではなかったのだ。
『幸せは無垢の心に宿る』
欲しい欲しいは『愛して欲しい』だったのかもしれない。その、欲しい欲しい病が発症した大元の原因は、昔々に叶えられなかった、『寂しかった』だったかもしれない。
でも、そうだとしても、それを叶えてくれなかった、あの時の”大人達”も、ただ自分の人生をただ生きていただけだった。今の私と同様に。
私の人生。彼らの人生。みんな違う人間。それだけだった。私は私を隠す必要はなかった。
『忘却は許すこと』
欲しかったもの。
それは外的要素からは得られるものではなかった。
でも、もう大丈夫。私は私を見つけた。
だからと言って、全ての苦しみが一掃されるわけではない。
ああ、お願い。
私が幸せでありますように。私の大切な人たちが幸せでありますように。
みんなが幸せでありますように。私のことを嫌ってる人も幸せでありますように。
『太陽の光に導かれ、陰りなき祈りは運命を動かす』
・・・そんな風に感じまして、この詩の引用されるシーンで泣いたのですよ(笑)
これは、あくまで私の考察です。各々が感じられたもの、きっと全く違う風に感じられるのでしょうね。
人生とは、苦しくも楽しいものですね。多くの失敗もあって、悲しみ、悔しさ、時には、『もう、無理!』にも出くわし、どうしたら立てるのか、、そんな時もあるのかもしれないですね。
そんな時、私はどうしてるのでしょうね。今は想像できませんが、やっぱり生きたい。そう思うのでしょうね。
と、まあ、なんとタラタラと、小さな事から大きなことまで、これ以上、乱文まみれにしないためにも、、詩についてのお話はこの辺で(笑)
いい人生を!!!