『鬼滅の刃』鬼を通じてみる”人”というものの愛しさ


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こんにちは、こんばんは。あおいゆきです。

 

鬼滅の刃』アニメの遊郭編も冬にはスタートするようで、アニメの方もまたまた楽しみですね!

あまり漫画に漫画に馴染みのない私ですが、久々に全巻、読破した漫画の1つです。

 

鬼滅の刃』を通じて見えてきた私の中のもの。今回はそんなお話です。

 

日々、湧き起こる感情とどう向き合い、どう生きるのかということを、結構ずっと考えさせられた作品でもあったんですよね。

 

鬼殺隊が鬼を滅するという目的で活躍していく過程は、自分の中に沸いた自分自身を苦しめる様々なものと、いかに向き合うか。。というものであった気がしました。

 

自分の中に勝手にわいてくる感情や煩悩。悲しみや、怒り、嫉妬、迷い。

 

苦しい環境や煩悩に翻弄された鬼たちの存在を通して学ぶもの。

 

何を求め、何に苦しみ、その先で何を選ぶのか。

 

鬼は自分が願ったものに蓋をした。自らが消滅する間際、本当に願ったものに再度触れ、涙した。

 

全巻読み終えて、そんな鬼達から感じた様々な思いを私なりに書いてみようかなと。

 

 

鬼舞辻無惨から始まる、様々な鬼達

 

鬼の始まりとして描かれた鬼舞辻無惨。

 

彼は生きたかった。

 

根本にある”生”というものへの執着。全ての感情や欲望は”生”あってこそ成り立つものなのでしょう。

彼の命はお母さんのお腹にいる最中から何度も危ぶまれ、”生”自体が常に点滅し続けていた。

産まれてからもなお命の選択を強いられ続けた。

 

死産だったとされていた中でも、彼の意思はその機能に必死にエンジンをかけようと試み続けた。荼毘に付される直前に点滅していた命は走ることを許された。

 

そんな彼の境遇から、自分というものが消滅してしまうことを、彼は何より恐れた。やっと掴み取った”生”を失うことを恐れ、永遠を願い欲した。

 

諸行無常。 

📖世の中の全てのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。

 

それは生きる物である以上、変えることのできない真理。

 

”生”という根本。それへの『執着』というのは最も強いエネルギーなのではないだろうか。様々な煩悩はそこから発生してくる、、という印象だ。

 

だからこそ、どの鬼よりそのエネルギーは強大だった。他の鬼たちは、生まれてから育っていく環境のなかで起こった出来事が原因で鬼になる事を選んでいった者たちだ。

”生”というものが、走り始めてからの様々な出来事によって沸き起こってきた”感情”に翻弄された者たち。

鬼の始まりの鬼舞辻無惨とその他の鬼たちとの違いはそんな所にあるように思う。

 

何かを越えていこうと試みることが、生きることを試みるという事

 

そんな鬼舞辻無惨という強大なエネルギーにたどり着くまでの間には、様々な『煩悩』との対峙があります。

 

様々な理由で鬼という生き方を選んだ者たち。

 

自らの価値というものに苦しんだ、 自分というもののあり方への疑問、

愛されたいというものに対するエゴ、 無力な自分自身に対しての怒り、

貪りの心、 強い劣等感、 そして愛する者を失った哀しみ怒り苦しみ。

 

避けようとしても避けられなかった苦しみも中にはある。

だが、無知さゆえ走らせてしまった煩悩なら、個人でも対処可能なようだ。(とは言っても簡単ではないが)

 

愛するものを失った哀しみ苦しみ怒り、そんな対処不能とも思える、人を一瞬にして鬼化させていくような性質のもの。

 

救いはどこにあるのだろう。何をよりどころに生きたらいいのだろう。どうやって生きていったらいいのだろう。そんな絶望の沼の底の底の方にまで突き落とされるような感情に支配されてしまった時、人はどのように生きていったらいいのでしょうね。

想像するだけでも本当に苦しくなってしまうものです。

 

そんな中に見つけた慈悲と祈り。

 

人の深い深い哀しみ。その全てを理解し取り払うことはできない。

 

本当に望んだことは何だっただろうか。本当に願ったその思いとは何だっただろうか。

それが叶わなかったという哀しみの感情から、祈りに変わる。

救いはそうした慈悲からしか得ることができないのではないかな、、そんな事を思いました。

 

全ての鬼の救いになったもの

 

鬼たちは、剣士との格闘の中での会話のやり取りなどから、自らの過去と対峙し、根本にあった自分の思いに近づいていく。

 

鬼達は追い詰められれば追い詰められるほど、心理的には本来の”人”に近づいていったのかもしれない。

一方の鬼殺隊の剣士たちは、その鬼とのやりとりや、伝わってくるものから素性を探り、一撃に繋がる突破口を見出す。その描写がすごい。

その印象はまるで心理カウンセリングのようでもあった。(これは本当に思いましたよ笑)

 

鬼たちが救われていくその過程は格闘の中で自らが見出した。

 

首を落とされた鬼。自ら消滅していった鬼。

最後に本当の願いに触れ、涙を流した。

 

自ら与えた慈悲によって欲したものへの本当の思いを知れた。

 

それが彼らの救いとなった。

 

鬼舞辻無惨のように、本当の最後の最後まで、その執着を手放せなかった者もいたが、それほどの強い願いでもあったのだろう。彼の”生きたい”ということへの思いもまた、無垢なものだったに違いない。

 

私を生きるということ

 

鬼滅の刃は生きる事を考えさせてくれた。

 

日々、様々なことがおこり、様々な感情を味わう。

 

私たちの日常は、法律や、規律や道徳、先人達が細かく作ってきた、様々な枠組みのお陰で、鬼滅の刃のような壮絶なことには滅多にはならない。しかし、日々、報道されるような凄惨な事件も存在する。

その根本にあるのは鬼滅の刃の鬼達の内情でも表されたものと同質のものを人は心に抱き、現実化していく性質を人は持っているのも事実だ。

 

心に悲しみが沸き、真っ暗な雲が立ち込めそうになった時、鬼滅の刃を思い出そう。

 

鬼達が自分自身に向けていった慈悲。

 

鬼殺隊が見せてくれた仲間や家族。支えてくれる人の存在。

 

これが生きていく上で、とても大切に持っていなければいけないものに思えて仕方ない。