『自分、自分、、』が『誰かの為に』に変わる話。
それは頭の中なのか、心の中なのか、善と悪の対決みたいな思い?考え?は、1日の中の出来事を通じて頻繁に現れる。
会社の廊下。ゴミが落ちてる。
『拾う?』『拾わない?』
横断歩道を渡っている最中の青点滅。赤になりそう。
おばあさんが、まだ横断歩道の3分の1辺りを歩いてる。
『安全に渡りきるまで寄り添う?』
『駆け足で自分は渡りきる?』
同僚が上司に感情的に叱責され落ち込んでいる。
どうしたのかな?大丈夫かな?気がかりだ。
『力になれることがあるなら力になる?』
『そのままにしておく?』
1日を過ごす中、そんなのいくらでもある。
心に思ったことを実行するかしないかの局面。
1日の終わり、自分が実行したこと しなかったことを振り返り、思うのだ。
『どんな知識や技術も人の為に使わないなら、無くていい』
でもそれは真実ではない。
なぜならそれは、結局は自分の為になってしまうものだからだ。
人にしてあげたこと。これは自分の中の『人を思う気持ち』みたいなものを、簡単には壊れないものに積層していく。なぜだかそうなる。
その反対に、心に思っても『実践しない』を繰り返していると、薄い氷みたいに脆く簡単に壊れる。
心に頭に思ったこと、考えたこと、それを実践するかしないか。
人との繋がり感のようなものはそういった些細な、一見なんの生産性もなく無意味にも思えることからしかできていかないのかもしれない。
そんな綺麗事にしか聞こえない絵空事。
室内に迷い込んだ虫を助けるとか、そんなことだっていいのかもね。
『ああ、元気でいて欲しいな』
自分以外の者たちに、そんな思いを抱けるのって、なんか気持ちいい。
人間社会の、でっかい事だってそこから始まってたりする。
だから、ちっさいことを疎かにしないで行こうと思うよ。
今日は、そんな道ばたでの雑談日記。
失敗の中に見る 進む勇気と力をひとり静かに語る回
何か新しいことをやろうとした時、まず上手くいかない。いくはずない。やった事ないんだもん。
「あれ?あれ?」
ともなるし、「こうかな?ああかな?」
ともなる。
期待があったんだろう。
上手な人を見てると自分もできそうなきにもなるし、漠然ともつ自分は有能という感覚。
失敗をすることで、つまづく事で、潜在的にもつ それらの感覚に気づくことが出来る。
上手くいかないことで省みることができて、工夫し変化に向かえる。
感情に注目しすぎる習慣を持って生きてると、失敗はきらいに思える時もある。だけど、やっぱり好き。
期待をぶち壊し現実に向かえるように、軌道を修正してくれるから。感情の沼に沈まず理性を使って進む方法を教えてくれる。
思うようには進まないよね。
泣いて、わめいて、うずくまって。
それでも進もうとする。それが人。
やっぱり魅力的だ。感謝がぶわぁ~っと湧いてくるのはそんな時。
「行こうよ」
そう言って、うずくまった私に手をさし伸ばし、待っててくれる私の中の力。それを感じることができる。
「ごめんね、根性なしで」
だけど、ありがとう。
そうやって勇気を知ることができる。
そしたら、調べて変えて動かして、がまた勝手に始まる。
ありがとう、わたし。
私が私に寄り添ってくれた私自身のそんな力を、あなたに、みなさんに使える、そんな人になれたらいいな。
大嫌いの中には原点があった
こんばんわ、こんにちは、あおいゆきです。
私は自分の家族が大嫌いだった。
「どうして手をふり払うの?」
「どうして僕をひとりにするの?」
「どうして、たまに優しいの?」
ずっとずっと疎外感があったんだよ
だから、僕はひとりの完全な人になろうとしたんだ
誰とも関わらずとも生きていけるだけの人になる為に
だけど
お母さんの優しさ、お兄ちゃんの力強さ。
本当は大好きだった
ずっと遠くから見てた
そんな風に過ごして何十年も経った。
ずっと「人」 というものを考えて、これまで生きてきた
いくつになっても未熟で、確信もって言えることなんて、どれだけのことがあるだろう
だけど、思ったんだよ
ずっとずっと前から、僕は家族が大好きだった
いつだって支えてくれた
いつだって味方でいてくれた
そんな素直な自分の気持ちに気づいた時
自分であることを喜んだ
この家族の一員でいれたことに感謝した
辛かったことばかりに目をやるのは、もう終わり
どんな事があろうが、生きていこうね
散らかった心の中をガサゴソしていたら、誰かに愛された形跡は必ず見つかる
信じることが原点にあった
その喜びに感謝を込めて。
小さな勇者たちへ。
”始めて”の出来事に遭遇すると、無意識に私は息子を思い出すことが多かった。
始めてやること、始めて通る道、どんなことをされるかわからない歯医者さんでの治療・・
大人になっても不安という感情が消え去ることはない。
成長するにしたがって、対処の仕方を知ったり、準備の為に使ったり、力に変えたり、不安という感情の扱い方を経験的に学んでいく。
先日、私はコロナウイルスのワクチン接種を受けてきた。
集団接種の会場に向かう道中、『接種して体に予期せぬことが起きたらイヤだな』そんな小さな不安が心にわいたのを察知した。
既に接種した人達から伝わってきた副反応くらいは出るのかもしれないけど、大丈夫だろうと、不安がそれ以上広がることはなく、その感情は消滅していった。
赤信号で車を停止させた時、歩道にいた、小さい子どもとお母さんの姿が目に入った。その様子をぼんやり眺めていると、さっきの些細な不安に連動してなのか、ふと、思考が飛び火した。
小さい息子のことがイメージの中に現れ、
『さっき私の心にわいた不安は、今の息子だったらどう感じたのかな・・。やっぱり怖いのかな・・泣いちゃうのかな・・そもそも注射自体が恐怖なんだろうな・・』
そんなことが頭の中に浮かんできた。
小さい体で。
いっぱい考えて。
怖い・・怖い・・怖い・・怖い全開の顔して。
やってみたけどやっぱり怖かったから、わんわん泣いて。
でも終わった後、挑んだ自分がなんか誇らしかった。
・・そんな風にして、あの子も大っきくなっていくのかな。
みんな、小さなことを一つ一つ経験していろんなことができるようになっていく。
あの歩道の男の子も、息子も。そして私もそうやってここまできた。
しかも、それらはひとりで乗り越えなければいけないのだ。勇気を使って。
そんなことをぼんやり考えていた。
『乗り越えるときはひとり』確かにそうだ。
誰かに相談しようが、やり方を教わろうが、支えてくれる人がいようが、乗り越える時は”ひとり”なのだ。
『勇気を使って、ひとりで乗り越える』
そこから、生きていく上で避けては通れないキーワードでもある”孤独”というものと、”勇気”というものに思考は流れていった。
・・・私は、自分がその時やりたいことを、やらずにはいられない子どもだった。
ひとりになるのは寂しい、でもやりたい。そんな思いを行き来しながら思ったことをやっていたように思う。
そのせいもあって、孤立することは日常で、その基本的な行動パターンは今でも変わってはいない。
例えば、スノースクート。
バイクや自転車が好きだったこともあり、”雪が降っても乗れる二輪車”を探していた。インターネットでスノースクートのことを知り、動画にハマった。
それまで10年以上続けていたスノーボードをやめ、ある日、完全に乗り換えた。スノーボードをやる連れはいたが、スノースクートに乗り換えてからは初心者。練習はいつも1人になった。
周りにはやってる人が1人もおらず、ショップの人達に聞いた滑り方のアドバイスと、少ないながら販売されていたDVDで頭の中にイメージがこびりつくまで毎日見ては週末1人でスキー場に出向き練習した。
ここでもやっぱり孤独だった。正直、仲間が欲しかった。これで合ってるのかなんて全然わからないし、何より寂しかった(笑)
それでも続けていると、何とか形になっていくものだ。
始めてから今年で8年がたつ。
今では現地に着くと、誰かしら知った顔に会って、一緒に滑ることも多い。
周囲でやってる人がいない事を継続するのはなかなか骨がおれる。
できんし、寂しいし、スノーボードみんな楽しそうだし、やめよかな、、など、仲間がいたら考える必要のないこととも向き合わないといけなくなる。
もしかしたら、私の息子も、『これをやる!』は楽しいのに寂しいな・・だから、みんなといたら寂しくないから、みんなと同じでいる!でも、つまんないな・・のふたつを、ふわふわ行き来して、みんなに合わせたり、、そんな状況で悩んじゃうこともあるのかもしれないね。
だけど、大丈夫だよね。乗り越えるためのやり方。君はもう、そのやり方を既に知ってる。
勇気の使い方だってちゃんともう備わってる。
もし、それを感じられなくなったり、周囲の音に気が散って自分の力を信じることができなくなったりした時は話をしようね。
この世は、みんなが勇者。
向き合おうとするもの、乗り越えようとする事の大小や、高い低いなど断じて関係ない。
自分に備わっているものを信じ、勇気を手に一歩を踏み出す者は、みんな勇者だ。
あなたも、わたしも。
そんな全ての勇者たちに敬意を贈りたい。
父へ。『あなたは私たちを想ってくれていましたか?』
こんにちわ、こんばんわ、あおいゆきです。
今回は父のことについて。
私は父がいない環境で育ちました。
私たち兄弟は、東京で生まれた。私が3歳の時に両親が離婚し、母と兄と私の3人は母の里に帰省した。
おぼろげにだが、私は小さい時の記憶があった。
私たち親子は駅のホームで電車を待っていた。
ホームに電車が到着すると、母は私たち兄弟の手を引いて電車に乗り込んだ。
電車の窓から外を見ると、3人の大人の男の人がホームに立ってこちらに視線を向けていた。スーツを着た、大柄な男の人達。真ん中は父だった。
そんな記憶の話を、私は母に話したことがあった。
そんなに小さい時の記憶があるのかと、母は驚いていた。
当時の私は3歳。それは私が見た父の最後の姿だったと母は教えてくれた。
あの時の記憶はたびたび思い出す。
私にはあの時の駅のホームでの父の姿の他に、父と過ごした記憶がいっさいなかった。
子供の頃、他の家にはお父さんがいて、でも自分の家にはいない。でも、だからといって寂しいだとか、いて欲しかったと思ったこともこれまで一度もなかった。
ただ、大人の男の人との関わり方がわからなかったのは事実だ。
高校までの学生生活も、男の先生は苦手だった。社会人になってからも、年が離れた男の人との接し方にもずいぶんてこずった。
父と離れて、あれから30年以上・・離れて暮らしてはいますが私にも息子がいます。
いつも想ってはいても、自分の都合で、会いたいからという理由で会っても良いのだろうか。会うに相応しい自分になっていけているのだろうか、、どういう関わり方が良いのだろうか、、それともずっと会わずにいた方がいいのだろうか、、そんなことをウジウジ考えてばかりの日々。
そんな時、父のことを思い出すのだ。
『あなたは私たちを想ってくれていましたか・・?
あの時、駅のホームで私たちを見送る時、どんな想いでいましたか・・?
会いたかったですか?それとも自分のことで精一杯でしたか・・?』
この問いは、息子から私に対して突きつけられる問いにも感じました。
何が正解かはわからない。ただ想いは伝えなければいけないと思った。
・・『あなたは私たちのことを想ってくれていましたか・・?』
『もちろんだよ。。 いつもいつも。 忘れることなんてない。これからもずっと。』
これがあの子に対しての私の想いの答え。
想いを形にするには、どうしたらいいか。私にできることは何か。成すべきこと、それを考えて過ごしていこうと思いますよ。
兄のお話。
私は兄が苦手だった。
趣味も共通のものもなく、兄はぶっきらぼうで、会話も少なかった。
・・小さい頃、私は兄について回った。
体も小さな私がついて回るのが邪魔だったのか、兄は私を突き離したり、置いて外に遊びに行ってしまった。二つ上の兄は、体も大きかったが、私は同年代の子達の中でも一番体が小さかった。
私は同年代の子と遊ぶ機会より、兄と、兄の友達と遊ぶ機会が多かったが、ちょいちょい置いていかれることも多かった。
僕が嫌いなのかな・・。
そんな私は、1人で山に上り、カマキリを捕まえたり、蛇を捕まえたりして遊ぶ機会が増えていった。もともと山が好きだった。
その日も1人で自転車に乗って出かけた。
山に向かう道の途中にトンネルがあり、脇には用水路があった。
うっすら水が流れる少し深めの用水路の脇に自転車を止め、その用水路を覗いた。
そこには蛇が数匹いた。マムシだった。
その用水路には、いつ行っても数匹のマムシがいるのがわかった。
休みの日に、再び、その用水路に自転車で行き、木の枝を拾ってマムシをひっかけ、道路に上げては、手で捕まえたり観察したりしていた。
兄にも見せてあげたかった。
ある日、トンネルの所の用水路には、いつも蛇がいるから見にいこうと兄を誘い、2人で自転車に乗り、トンネルの用水路に向かった。
その日も、やっぱり数匹のマムシがいた。
いつもと同じように木の枝を拾ってきて、マムシに引っ掛けて道路にあげた。
捕まえて兄に見せようと、手でマムシの後頭部を掴んだ。
すると、後頭部を掴まれたマムシは頭を反転させて、私の人差し指を噛んできたのだ。
マムシは強い毒を持っている。
慌てた私はすぐにマムシを振り払い、噛まれたことを兄に伝えた。
兄は『とにかく家に帰ろう!!』と、2人で自転車をこぎ、家路に急いだ。
母は仕事で不在。祖母は私たちが住む家の真向かいに住んでおり、祖母の家に行き、事態を伝えた。すぐにタクシーを呼んでくれ、祖母と2人で病院に向かった。
私の人差し指はみるみる青黒く変色し、パンパンに腫れていた。
病院に到着してから噛まれた傷口を消毒し、血清を打ち、包帯を巻いてもらって、しばらく休んでから自宅に戻った。
兄はしばらくすると自宅に帰ってきた。
母はその時は仕事で抜けられなかったようだが、就業を終え帰宅して私の状態を気にかけた。
後に聞いたことだが、噛まれてから、自宅に着き、私は祖母の家でタクシーの到着を待っている時、兄は母の職場に電話したそうだ。
だが、電話の横のメモ帳に書いてあった母の職場の電話番号が間違っていたのか、母の職場に繋がらなかった。
仕方がないので、兄は自転車で母の職場に向かったのだった。
その時の兄は汗びっしょりで息を切らし、慌てて職場に入ってきて母に状況を伝えたのだそうだ。
それを聞いて、私は嬉しかった。
いつも置いていかれて突き放されるから、兄は私が嫌いなのかな、、邪魔なのかな、、そう思ってたから。
だから、すっごく嬉しくて、嬉しくて泣いた。
私は兄が大好きだったから。
今でも思い出すんだよ。
私を突き放してぶっきらぼうに振る舞うけど、本当は優しくて、実はいつも私を気遣ってくれていた。
体が大きくて強い兄が大好きだった。
ありがとう。
あなたは今でも私の誇りです。
こんばんわ、劣等感さん。
こんばんわ、こんにちわ、あおいゆきです。
今日は小さい頃のからの記憶のお話。
小さい時、喘息だった。
運動するのが大っ嫌いだった。
呼吸をする時、空気が通る管の太さが10分の1になってしまったかのように呼吸ができない。どうすれば良いのかわからなくなって取り乱し、さらに呼吸ができなくなった。『もう終わらせて』いつもいつも、そう考えていた。
いつしか運動が恐怖に変わっていた。
『また・・』がいつもいつもつきまとった。
『今日は大丈夫だろう』がなかった。小学校の頃、体育が嫌いだった。理解されない苦しみを伝えたところで、周りのみんなからは『サボってる』としか思われないんだもん。
中学に入った頃もそれは続いた。
以前から比べれば頻度は減ったこと、対処の仕方が分かってきていたことなどもあり、体を動かす機会は増えていた。でも、発作自体はなくならない。携帯用の吸入器は常にポケットの中だ。
体育にもできるだけ参加した。
発作が起きたら吸入器を使った。大丈夫じゃない時も大丈夫と言うようになってた。
でもホントは大丈夫ではない時もあった。
サボっているとしか思われないことが、とても嫌だった。発作が起こっていない時は、いたって普通だから、なおさらそう思われてしまう。
いつしか、体の不調を膨らませて『それなら仕方ないね・・』に誘導するような伝え方も身につけた。後ろめたかった。
でもさ、、
『息ができないってわかる?どれだけ焦って、どれだけ取り乱して、でも落ち着かないともっと苦しくなるから、涙を流しながら心の中で落ち着け・・落ち着け・・大丈夫・・って言い聞かせて、呼吸に意識を向けて、、あまりの苦しさに、もう殺して欲しいって思いがわいても、落ち着け・・落ち着け・・って、また呼吸に意識を向き直させての繰り返し。。』
これを全部伝えれば分かってもらえたのかな?
こんな後ろめたさってさ、隠しておかなきゃいけないものに変わっていく。
隠しておく為には、人を遠ざけるか、自分が隠れなきゃいけない。
何にもないのに、遠ざけたり隠れたりもできないから、自分の中の”ダメ”を探し出す。
それを地道に一つ一つ見つけ出して大きな劣等感に仕立てていくの。
根拠なんてあろうがなかろうが関係ない。目的は自分を隠すためなんだから。隠すには理由がいるでしょ?
劣等感てね、その程度のものだよ。俺にとっては。根拠なんてない。
そんな劣等感。
俺を守ってくれた劣等感さん。これまで、ありがとね。
でも、今になって思うよ。
素直に言えばよかった。『息ができなくなるの。だから運動するのが怖くて。』
分かってもらえたら良いけど、分かってもらえなくて陰口言われても、どっちでもよかった。本当のことだもん。
でも言えなかったね。当時の俺にとっては、学校が世界の全てだったから。
今はすっかり良くなって発作も全く起こらなくなった。
よく頑張ったね。ありがとう。
そして、劣等感さんにも、ありがとう。