心のモヤモヤて何かを知らせようとしてくれてるんだね。
こんばんわ、こんにちは、あおいゆきです。
最近の自分自身に対して、居心地の悪さを感じはじめていたんです。
その理由は、職場で挨拶するのをやめようと決めてから始まったんですよね。
細かくいうと、挨拶しても返ってこない人に対してと、上司でもないのに挨拶ごときで上から風な返しをしてくる人に対して。
いませんか?そういう人って。
それ以前はどうだっかと言うと、毎朝、部署関係なく、返って来ようが来まいが、も関係なく誰にでも挨拶してたんです。何も気にせず。
朝ですもん。その日はじめて顔合わせたんですもん。するでしょ、そりゃ。
そんな思いで何気なく挨拶して過ごしていました。
でも、なぜだかそれが最近なんかダメだったんですよね。気になって気になってしかたない。返さないとか、いちいちムカついてしかたない。
その感情は長引きはしないにしても、その都度、その都度、何でこっちが気分悪くならんとダメなんよ!いつしか、そんな風に思うようになっていた。
以前は何も気にしてないと思っていたけど、本当は我慢してたとことかあったのかな、、などとも考え、いったんやめてみようと。そういう人に挨拶するの。
嫌われてるんならそれはそれで良いやとも思って。
やめてみたら、気にならなくなった。しばらくは。
・・すると今度は何だか心がモヤモヤし始めた。
気にならなくなってからは、以前から挨拶しても返ってこなかった人とのすれ違い際、無意識に挨拶しそうになるのを、止めてる自分がいることに気がついたんです。しようとするものを意識的に止めるんですもん。そりゃ、居心地悪いですよね。
うわ。。
どうすりゃ良いのよ。。
したらしたで朝からいちいち気分悪くなるのもイヤだし、しなかったらしなかったで自分の心がモヤモヤするし。。
まあいい。忘れよう。しないのはしないで続行しよう。
と、モヤモヤはあれど、そんな風に日々を過ごしていました。
とある日、こんな言葉に出会いました。
『放下着(ほうげじゃく)』
これは禅語で、様々な迷いや執着を捨てること。と言う意味だそうです。
その言葉を詳しく調べて行くにつれ、こう思ったんですよ。
『〇〇しなければいけない』
『〇〇するべきだ』
『こうあるべきだ』
『自分は大切にされるべきだ』
・・など、傲りや、あるべき姿や、やるべきことに自分をはめ込み、そうではない自分、できていない自分を理性が排除しようとして窮屈にしていたのかもしれない。
その結果、無意識に周囲の人にもそれをいつしか強要しようとしてたのかな。
相手には相手の事情がある事を見ようともせずに。
だから挨拶を返さなかったり、上からな感じに返す人を許せなくなってたのだろう。
ちゃんとしない自分、できない自分、至らない自分、、そういったことに否定的な自分。できない時、そんな不完全な自分に居場所を与えず『できない自分はダメ!』と言い続けてきた。そんな自分だっていたっていいんだよ。むしろ、いてください。
『そんなダメな所もあるよなぁ・・そんな自分・・でも良いじゃないか😊』
まずは、そこからだった。
囚われ、とでも言うのだろうか、、そういうのって意外と自分の行動に影響してる。
挨拶の話に戻すと、しようがしまいが、それは、どっちでも良い事なんだとも思った。
したければすればいいし、したくなければしなくてもいい。
それによって人を良い悪いで判断することではないなって。
振り返ってみれば、仲間同士では毎回ちゃんと挨拶は交わしてるな。。
挨拶、、そんなしょうもない些細な事だったけど、なんか色々教えてもらった。
そんな出来事でしたよ。